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サテライト(展示物)のご案内

南地区コミュニティ
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◎ 南地区コミュニティセンター(南公民館)
名 称 ミナミチクコミュニティセンター(ミナミコウミンカン)
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 南地区コミュニティセンターは、南小学校区内にある3自治会で構成され、1978年(昭和53年)に旧西那須野町で最も早く発足した南地区コミュニティの活動拠点です。南地区コミュニティは、明治期の那須開墾社所有地にあたります。また、田園空間博物館のフットパス「那須開墾社ゆかりのルート」の出発拠点でもあります。
 南地区コミュニティでは、「盆踊り」「ハイキング」「花いっぱい運動」など数多くの行事を行い、住民相互の連帯感を高め、明るい地域づくりを目指しています。
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1 縦道
名 称 タテドウ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 縦道は、1875年(明治8年)に行われた関東地方の測量「関八州大三角測量」の2地点を結ぶ直線(基線)が元になっています。1880年(明治13年)に開拓を始めた那須開墾社が農場の中央部を縦貫するこの基線を開拓道路として利用したもので、現在も広域農道ライスラインの一部として真っ直ぐな道路が10kmにも及びます。
 また、縦道に沿って、那須疏水第四分水(縦堀)が流れていますが、直接水路を見ることはできません。
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2 蚕金神社
名 称 コガネジンジャ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 蚕金神社(こがねじんじゃ)は、一区町公民館敷地内にあります。かつてこの辺りでは、養蚕が盛んであったことから、金山彦命(かなやまびこのみこと)(鋼業、農耕等の神)と稚産霊命(わくむすびのみこと)(養蚕の神)を祀っています。設立は不明ですが、台座には1925年(大正14年)建立とあります。また、蚕金神社の脇には、諏訪神社と八坂神社が祀られています。蚕金、諏訪神社は10月、八坂神社は7月の第2日曜日が祭日になっています。
隣の大師堂は、下野新四国88か所霊場20番札所になっています。
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3
※平成29年度にサテライト廃止となったため、欠番となっております。 名 称
地 域
ルート
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4 観象台(南点)
名 称 カンショウダイ(ナンテン)
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 観象台(南点)は、大田原市実取にあります。1875年(明治8年)から明治政府が関東地方の測量(関八州(かんはっしゅう)大三角測量)を行った際、三角測量の基点として造りました。北点は、千本松地内の畜産草地研究所にあります。1878年(明治11年)4月から2回基線測量が行われ、北点と南点を結ぶ基線の長さ10628.310589mを測定しました。
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5 渡辺勇吉とヤスの碑
名 称 ワタナベユウキチトヤスノヒ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 渡辺勇吉とヤスの碑は、俗に合格神社と呼ばれる菅原道真と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀った神社境内にあります。
 渡辺勇吉は、新潟県出身で矢板市幸岡にある小川屋に奉公し、小川屋の娘安子と結婚しました。勇吉は、1882年(明治15年)那須開墾社の開設初期に入植し、奉公の経験から記帳などを身につけていたため開墾社では世話人として戸籍簿の整理や移住人の面倒をみました。また、初代区長や初回村会議員も務めました。碑は、1900年(明治33年)に関係者により建てられたものです。
 妻ヤス(安子)の碑は、1915年(大正4年)に建てられたものです。碑文には、夫勇吉と農業に励む様子を「其の貞順を称す」と讃えられています。
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6 旧日光北街道わきの道標
名 称 キュウニッコウキタカイドウワキノドウヒョウ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 道標は、日光北街道と原街道の交差点南側にあり、1808年(文化5年)に建てられたと思われます。道標には、「右 日光」「左 大田原」と刻まれています。日光北街道は、江戸時代の大田原と日光を結ぶ街道でした。
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7 親王台と那須開墾社第一農場跡
名 称 シンノウダイトナスカイコンシャダイイチノウジョウアト
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
Jルート水と森満喫ルート
 親王台は、明治天皇が1881年(明治14年)の東北・北海道巡行の際に那須野が原の開拓の様子を見るために那須開墾社第一農場の一角に造成された高さ約3mの塚です。実際には、有栖川宮熾仁親王が天皇の名代として塚に登られました。また、1885年(明治18年)の那須疏水の通水式の際にも、北白川宮能久親王も登られ松の木(宮の松)をお手植えされました。
 那須開墾社第一農場事務所は、親王台北側の農家あたりにありましたが、現在当時をしのぶものとして農家裏手に土塁が残されています。
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8 なんじゃもんじゃ
名 称 ナンジャモンジャ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
Jルート水と森満喫ルート
 なんじゃもんじゃは、ハルニレの木で推定樹齢1000年と言われ、旧西那須野町の天然記念物に指定されていましたが、1980年(昭和55年)に枯死してしまいました。なんじゃもんじゃの言われは、水戸光圀がこの木の下で休憩した折に、地元の人に名を尋ねたところ誰も知らなかったことから「なんじゃもんじゃと名付けるとよい」と言われたことによるそうです。
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9 西郷神社
名 称 サイゴウジンジャ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 西郷神社は、西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の実弟)を祀った神社で、国道461号線の那須塩原市と大田原市との境(大田原市加治屋)にあります。西郷従道は、1881年(明治14年)にいとこの大山巌(いわお)と共同で加治屋(かじや)開墾場を開設し経営していましたが、農場は、1901年(明治34年)に西郷農場と大山農場に分割されました。1902年(明治35年)に西郷が死去し、翌1903年に農場の移住民により建立されました。祠は、石に彫刻を施し立派なものです。祭日は、8月18日です。
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10 常盤ヶ丘と杏の里


名 称 トキワガオカトアンズノサト
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
Jルート水と森満喫ルート
 常盤ヶ丘は、那須野が原扇状地に3つある分離丘陵の1つで、丘の頂上には那須野が原開拓の功績者である印南丈作や矢板武ほか3名のお墓があります。毎年4月7日には彼らの遺徳を忍ぶため、関係者により墓前祭が行われています。
 また、杏の里は、常盤ヶ丘の東側斜面にあります。かつて、里作りのために杏の木をたくさん植栽し、今では3月下旬から4月中旬にかけて淡い紅色の花におおわれます。
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11 金刀比羅神社
名 称 コトヒラジンジャ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 金刀比羅(ことひら)神社は、二つ室公民館脇にあり五穀豊穣の神として地元の人の信仰を集めています。神社は、1884年(明治17年)に那須開墾社の入植者により一本木(現在の一区町)に建立されており、当時の農業日誌に「・・本社移住人・・・一本木鎮座琴平神社を設立・・」と書かれています。始めは、「なんじゃもんじゃ」近くにありましたが、その後(時期不詳)現在の場所に移設されました。
また、隣には加茂神社と下野新四国88か所霊場21番札所の弘法大師堂があります。「弘法様」として地域の人々に親しまれています。
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12 長延寺
名 称 チョウエンジ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 長延寺は、常盤ヶ丘の南麓にあります。1885年(明治18年)に大田原市佐久山の正浄寺の説教所として開かれました。浄土真宗西本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来です。開拓期の西那須野地区に最初にできた仏教施設で、雲照寺とともに学校のなかった開拓期の子供の教育の場でもありました。
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13 ホタルの里
名 称 ホタルノサト
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 ホタルの里は、那須疏水から引いた分水路を田園空間博物館整備事業の一環として水辺整備を行ったものです。地元有志で作る「那須疏水ホタルの里保存会」が、ホタルの幼虫の餌となる「カワニナ」の増殖に取り組んだ結果、毎年夏になると水路の周りを多くのホタルが飛び交うようになり、多くの人たちがホタルを鑑賞しようと集まるまでになりました。
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14 諏訪神社
名 称 スワジンジャ
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 諏訪神社は、二区町公民館敷地内にあり、1892年(明治25年)に長野県の諏訪神社から分社したものです。那須開墾社の二区町地区には、長野県下伊奈地方からの入植者が多く、出身地の諏訪神社に開拓地での発展と長い道のりでの安全を祈願し、故郷を後にしたと言われます。神社は、狩猟神、農業神、武神として信仰を集めており、毎年10月10日にお祭りがあります。神社隣には津島神社が祀られ、また、下野新四国88か所霊場19番札所の大師堂もあり、「弘法様」として地域の人々に親しまれています。
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15 二区町の馬頭観音
名 称 ニクチョウノバトウカンノン
地 域 南地区コミュニティ
ルート Fルート那須開墾社ゆかりのルート
 馬頭観音は、仏教においては衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。
 この馬頭観音は、死んだ馬を供養するために建てられた石碑で、1909年(明治42年)に荒瀬久五郎により二区町公民館の裏、百間道(ひゃっけんみち)の傍らに建立されたものです。
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16 一区町馬頭観音と道標
名 称 バトウカンノントドウヒョウ
地 域 南地区コミュニティ
ルート
 馬頭観音は、仏教においては衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。
 この馬頭観音は、死んだ馬を供養するために建てられた石碑です。この2基の馬頭観音は、1925年(大正14年)と1939年(昭和14年)に建立されたものです。2003年(平成15年)道路の改修に伴い現在地に移転されました。道標は、昭和天皇の即位を記念して地元一区青年団が建てたものです。
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17 西堀開墾記念碑
名 称 ニシボリカイコンキネンヒ
地 域 南地区コミュニティ
ルート
 西堀開墾記念碑は、1927年(昭和2年)に現一区町、那須疏水西堀東側に入植した10軒の入植者が、入植20年を記念して建立しました。この地区は、那須疏水の水利権がなかったため水田を作ることができず、苦しい生活を送ったことが碑文に記されています。
 戦後動力ポンプにより地下水の汲み上げがされるようになり、徐々に水田が開け現在の緑豊かな田園となりました。
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