接骨木街道沿いの蟇沼用水は、1967年(昭和42年)に着手した国営那須野原総合農地開発事業により、そのほとんどがコンクリートの水路となりましたが、昔のままの姿を今に残す石積みの水路です。蟇沼用水は、慶長年間(1596年〜)に開削され、初め「接骨木堀」と呼ばれました。その後、旧西那須野町石林地内まで延長され「蟇沼堀」と呼ばれるようになり、1771年(明和8年)大田原城まで引かれ、大田原城内の飲用水として使用されたため沿線の農民が利用することはできませんでした。沿線の農民が利用できるようになったのは、明治に入ってからで、1900年(明治33年)に現在の用水堀ができました。 |