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 このぺージは、石ぐら会が発行した「那須野が原歴史探訪」の内容を掲載し、 那須野が原
 開拓や那須疏水開削の歴史を紹介するものです。

第11回 開拓のあしあと

  那須野が原の開拓が急速に進むのは明治以降である。明治政府は富国強兵と殖産興業政策を推進した。
  大久保利通が華族授産及び殖産興業の方針を打ち出し、開拓の奨励を行なった。これに基づき北海道や那
 須野が原で大規模な開拓が始められた。那須野が原の開拓は官有地貸し下げという形で始まる。この中心人
 物が松方正義である。地元有力者への貸し下げもみられるが、多くは、華族、薩長系高級官僚による土地取
 得であった。開拓を進めていく中で最大の障害は、水の問題であった。那須疏水開削後、華族、高級官僚の
 農場が開設され、開拓が進んでいく。

日本三大疏水及び明治用水
  那須疏水は、日本三大疏水のひとつにあげられる。福島県の安積疏水、京都府の琵琶湖疏水とともに那須
 疏水をいう。(他に明治用水ともいわれるが、疏水としての名称、担当者南一郎平との関係で琵琶湖疏水を
 採用)

安積疏水
  猪苗代湖の戸ノ口銚子口からトンネルを掘り、延長52Kmの幹線と78Kmの分水路により、安積地方
 の約8千haの水田をうるおす。内務卿大久保利通の建言により、士族授産、開墾を目的として着手。オラ
 ンダ人フアン・ドールンの実地調査が行われ南一郎平が安積に常駐して準備をしていた。1879年(明治
 12年)政府の直営工事としてはじめられ、1882年(明治15年)に通水。岩倉具視、松方正義ら政府
 高官を迎え通水式が挙行された。全長40Km。工費40万円。
  安積疏水の完成により、開田が急速に進み、3年後灌漑面積約3千ha、明治の末には5千2百haに増
 加した。1970年(昭和45年)から新安積疏水工事がはじめられ、1977年(昭和52年)に完成。
 これにより幹線水路67Km、分水路448kmの計515kmとなり、受益可能面積は1万haに及ぶ。
  安積疏水は、農業用水ばかりでなく飲用水や発電にも利用され、郡山が工業都市として発展する契機とな
 った。

 琵琶湖疏水
  琵琶湖から宇治川までの疏水運河で、舟運、工業用水、発電に使われていた。1885年(明治18年)
 に着工され、1890年(明治23年)に完成。総工費125万円。全長20.1km。南一郎平の予備調
 査の後をうけて、田辺朔郎が指導し、工事担当者となる。長等山(2,436m)の疏水トンネル、日本最
 初のインクライン、日本最初の水力発電など画期的な事業を行う。さらに、1908年(明治41年)から
 12年間をついやし、第2琵琶湖疏水工事が行われ、大津から鴨川まで10.5kmの新水路と鴨川運河の
 拡張、新水力発電所の建設が行われた。
  疏水工事担当者南一郎平との関係と疏水と用水の名称の違いから、明治用水を三大疏水に入れなかったが
 、明治用水を三大疏水に入れてあるものも多いので明治用水についてもふれておく。

 明治用水
  愛知県のほぼ中央にある安城市を中心に矢作川、巴川を水源として矢作川下流の右岸約7千haを灌漑し
 ている。幹線水路52km、支線水路296kmに及ぶ日本屈指の用水路である。
  この地は安城が原とよばれる乏水性の台地で、ほとんどが山林原野であった。矢作川の水を碧海台地に引
 いて大規模な新田開発を最初に計画したのは和泉村(現安城市和泉町)の都築弥厚であった。5年の歳月を
 経て測量を完成し1827年に幕府に出願したが、農民や領主の反対が強く計画は挫折した。その後、伊豫
 田与八郎、岡本兵松らの努力が実り、都築弥厚の夢が実現することになった。工事は都築弥厚の計画を受継
 いで1879年(明治12年)1月から昼夜兼行で進められ、1880年(明治13年)4月18日に用水
 路完工式が松方正義内務卿を迎えて盛大に行われた。
  その後、分水が完成し1881年に「明治用水」と命名された。民間人によって、計画、開削され、工費
 7万5千円も伊豫田、岡本らが私費を投じ県が資金の一部及び工事の総監督を担当した。現在は、農業用水
 、工業用水、上水道に使われている。

那須疏水路図那須疏水安積疏水琵琶湖疏水明治用水