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 このぺージは、石ぐら会が発行した「那須野が原歴史探訪」の内容を掲載し、 那須野が原
 開拓や那須疏水開削の歴史を紹介するものです。

第9回 江戸時代以前のすがた(続き)

 3−4.蟇沼用水

   国道400号関谷より、遅野沢を経て、蟇沼大橋を渡り、左折すると萩平の通じる。この手前に蟇沼用水取入
  口がある。取入口は、大蛇尾川・小蛇尾川の合流点のすぐ下で、立石というところから水を取っている。
   蟇沼用水は、那須西原で唯一の江戸時代の用水で、1596年〜1615年(慶長年間)にさかのぼるという。
   当初は、5か村(蟇沼・折戸・上横林・横林・接骨木)の飲用水として、その後大田原城下まで引かれた。
   1901年(明治34年)に2km上流に取入口(現在の位置)をもうけ、この時地元の郡司鶴吉が測量に携わった。
   国営事業により取入口・水路が改修され、水路は蟇沼−折戸−上横林−西富山−石林−大田原を流れる。

蟇沼用水取入口改修前の那須疏水(右)との交差現在の那須疏水(右)との交差

 3−5.蒲廬の碑

   旧奥州街道が大田原市親園に入ると街の北側に湯殿神社がある。その前の街道沿いのさや堂のおさまった
  蒲廬の碑を見ることできる。蒲廬の碑は、1812年(文化9年年)ここを通りかっかた行脚僧高津義克が蜃気楼
  を目撃した。土地の者が”蒲廬”といっているもので、僧はすぐにそのことを書き残したという。それが後に石に
  刻んだのがこの碑である。
   ところで、当時幕府領那須・塩谷62か村を支配していた代官山口鉄太郎高品は、八木沢に出張陣屋を置き、
  用水を引き新田をつくるなど、地方開発を積極的に進めた。この僧は、蒲廬を代官の善政と結びつけたもので、
  この碑は、代官の功績をたたえたものといえる。近くに、出張陣屋跡の鴨内川にかかる”ごじゃ橋”(ご陣屋橋)
  がある。
蒲廬の碑のさや堂蒲廬の碑