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 このぺージは、石ぐら会が発行した「那須野が原歴史探訪」の内容を掲載し、 那須野が原
 開拓や那須疏水開削の歴史を紹介するものです。

第12回 那須疏水

 歴史と概要
   那須野が原の開拓を支えた那須疏水。日本三大疏水に数えられるこの疏水にも、苦闘の歴史が秘めら
  れている。今は分水にふたがかけられ、その流れを見ることは、あまりできないが、この疏水の流れに
  は、大運河建設の夢につながる。那須疏水は農業用水として引かれる前に、大運河構想があった。那珂
  川の水を、箒川を通り鬼怒川につなぐ構想で、当時の県令鍋島幹の発案により、印南丈作・矢板武が推
  進役として力を尽くした。しかし、すでに運河に時代ではなく、近代の象徴としての鉄道・国道が幅を
  利かす時代となっていた。
   飲用水路の開削の後を受けて、那須疏水は1885年(明治18年)4月15日、烏が森丘上で起工
  式を挙げる。それから5ヵ月後の9月15日、那須疏水の掘に水が流れた。5か月という工事期間はモ
  ッコとクワしかない当時にとっては、驚異的なスピードであった。そこには移住者たちの水への執着が
  あったであろうが、多くの囚人達が疏水工事に働かされたことも、忘れてはならない。そして、分水は
  翌年第一分水から第四分水まで完成する。(西堀は後年。)しかし、その水利権は各農場に帰属し、移
  住民・農民の手に移るまでには長い年月を必要とした。
 那須疏水ができるまで
   那須疏水ができるまでには大変な苦労があった。大運河構想にはじまり、飲用水路・那須疏水本幹・
  分水路の開削、そして那須疏水の維持・管理は、多くの人々の力によって支えられた。
 大運河構想
   那須疏水の始めの考えには、運河の構想があった。これは、1876年(明治9年)に地租改正の説
  明会の後に、栃木県令鍋島幹より提案されたもので、那珂川と鬼怒川を運河で結び、塩谷郡・那須郡及
  び会津地方の物資を東京に送り込むという計画であった。これにより、翌年現地調査を行い、取入口を
  細竹とし、那須野が原を通り矢板・川崎をへて草川(氏家)につなぐ計画をたてた。
   翌年測量が行われ、測量の結果、水路の長さ45Km、工事費16万5000円となり、政府に出願
  された。
 飲用水路
   那須野が原にも農場ができはじめたが、水がなく飲み水にも事欠く状態のため、運河計画と平行して、
  とりあえず飲用水路を企画した。測量の結果、那珂川右岸の細竹村赤渕から観象台(千本松)付近まで
  の約15.2Kmとし、工事は1881年(明治14年)に着手され、翌年完成したが、その間、イン
  フレによる資金不足に苦しみ、結局5万7500円を要した。
 那須疏水の開削
   大運河計画を捨てきれない印南丈作・矢板武は各農場の代表と、灌漑・運河の開削願いを政府に出す
  が、運河の時代ではなかった。1884年(明治17年)10月頃から灌漑用の大水路開削に考えがか
  わる。この年7月末より印南・矢板は取入口から亀山隧道の試掘を開始していた。その後、度重なる陳
  情により、翌年4月1日太政大臣より10万円下賜の許可があり、土木局直轄工事になった。
   同年4月15日、烏が森で起工式が行われ、西岩崎より千本松まで16.3Kmの那須疏水本幹が掘
  り進められた。通水式は1885年(明治18年)9月15日肇耕社(後の三島農場)前で挙行された。
 分水(支線)の開削
   分水は当初自費であったが、支線開削も土木局直轄で、1886年(明治19年)夏頃までに第一分
  水から第四分水までが完成した。しかし、第四分水(加治屋掘という)が東に片寄っていたため、那須
  開墾社が独自に縦堀と西堀を完成通水した。このため、縦堀と西堀と加治屋掘を合せて第四分水といっ
  ている。